みなさんこんにちはこんばんはM1の佐藤です。やっとブログが回ってきました。前回ブログを書いたのが2024年3月30日ということで約10ヶ月ぶりですね。1週間に1人というペースで更新している電気通信大学陸上競技部のブログが回ってくるのにこれだけ時間がかかるというところにも現在の陸上部の部員の多さが現れていますね。
さて、長距離の皆さんは街を走っている時よくこんなふうに思うことでしょう。
「この道っていつからあるのだろうか?」
私もよく思います。我々の学び舎であるこの「電気通信大学」についてもそのように感じたことはないでしょうか?そこで今回は我が電気通信大学のルーツを地図を見ながら探っていこうと思います。なお、内容に関してはいち学生の稚拙な調査によるものであるため内容の誤りについてはご容赦されたく思います。
はじめに (現在の電気通信大学)
我々が日々、学習や研究活動を行っている電気通信大学はみなさんご存知の通り「東京都調布市調布ケ丘1丁目5−1」に位置している。
京王線調布駅から徒歩5分の場所であり、南には国道20号線通称「甲州街道」、西には武蔵境通りと鶴川街道の起点および終点がある上、すぐ近くには中央高速道路調布ICがあるなど非常に交通の便の良い立地である。また、北側には深大寺を囲むように豊かな自然が広がっており、閑静な住宅街が広がっている。余談ではあるが筆者が昨年引越しに際して伺った不動産業者によると、大学がある土地の資産価値は相当であるようだ。
非常に立地に恵まれている我が電気通信大学であるが開校当初より調布に校舎を構えていたわけではない。みなさんよくご存知ではあると思うが調布に校舎を構える前に東京都目黒区に位置していたのである。我が大学の後援会である「目黒会」の名称の由来となった場所である。そこでまずは調布に来る前の電通大の歴史を見ていこうと思う。
1954 年までの電気通信大学 (麻布〜目黒)
電通大の過去の歴史を見ていくにあたり、昭和55(1980)年12月25日に社団法人目黒会(当時)から発行された「電気通信大学60周年史」を参照および引用していく。現在はこちらのURLより(http://www.museum.uec.ac.jp/60th-anniversary/index.html) 閲覧が可能であるため興味のある方は是非。
さて、上記の60周年史の「電気通信大学60年史年表」を見てみるとこのように書いてある
大正7年 (1918), 12.7, 麻布区飯倉町4丁目4番地に「電信協會管理無線電信講習所」の標札を掲出(小暮幼稚園の階上を借り入れ)
電気通信大学の前身である「無線電信講習所」は当初、麻布に校舎を構えていたようである。今でこそ港区の代表的繁華街である麻布に、校舎があったのだから流石の私も驚きを隠せなかった。麻布における所在地は現在の東京タワーの西側の足付近で合ったようであり、東京都港区役所にて開催された「麻布未来写真館~次世代へつなぐ麻布の記憶~」に掲載されているパネルにもその様子が記載されている。(https://www.city.minato.tokyo.jp/azabuchikusei/mirai/documents/07_rekishibunka03.pdf)
上記の図は「今昔マップ on the web」により作成した現在と無線電信講習所開所に近い年代の地図および航空写真を比較したものである。左下の航空写真の赤い建築物が東京タワーである。過去の航空写真において1918 年付近の航空写真が存在しなかったため、1936 年の写真を掲載しているが、それでも、現在とはずいぶんと様子が違うことが伺える。我が同期である内藤くんの出身校である芝高校のすぐそばで電気通信大学は誕生したのである。 (彼がなかなか電通大と離れることができないのはそのせいかもしれない。)
さて、1918 年に開所した無線電信講習所であるが、1920 年には目黒校舎への移転が行われている。電気通信大学60年史には下記のような記述がなされている。
『電信協会会誌』第229号〈1920年(大正9年)12月25日発行〉会告に次のような記述がみえる。
- ◎本会管理無線電信講習所は新築落成に付左に移転す
東京府荏原郡目黒村大字下目黒五番地実際に、無線電信講習所がこの地に移転した日としてある特定の日を決定付けることは難しいが、同じく『電信協会会誌』第230号〈1921年(大正10年)3月25日発行〉電信協会記事によれば、移転の終了した日として、1920年(大正9年)12月15日とすることができると思われる。
これより1957 年まで電気通信大学は目黒でその歴史の歩みを進めることとなる。ここで先ほどと同様に目黒時代の電気通信大学の所在地と現在の地図を比較してみる。
当該地域は、現在、警視庁目黒区合同庁舎として活用されているようである。おや、右上の現在の地理院地図より、我が同期である名手くんのゆかりの地名「三田」があるのが確認できる (ここでは「みた」であるが)。やはり我々は電気通信大学で集う運命だったのである。
ここで、当時の調布校舎の周辺の地図を見てみようと思う。
驚きの田園風景である。現在、キャンパスの目の前を走っている国道20号線も当時は現在でいうところの「旧甲州街道」だったわけである。
調布校舎への移転に関しては、電気通信大学60年史に興味深い記載がなされている。
以後、全学調布移転という問題が解決されるべき懸案となってくるのである。服部学順校舎設立委員会委員長はその件について次のように学生に対して説明している。
諸君もいろいろと心配していた新校舎も本決まりとなり大蔵省の許可も下りたので直ぐ建築に取りかかる。早く全部移転したいのだが予算の関係で取りあえず来年から教養課程を向こうに持って行く予定である。……また、私としても一番心配している学寮は幸い調布町が非常に歓迎してくれるので何らかの対策を講じて諸君には極力心配をかけないようにする積もりである。調布町は戦災を受けていないので樹木も多く落着いた感じのする町であるが、都心より少し離れているので諸君には便利が悪いだろうが環境が良いので勉強には最適の場所であると思う。諸君も一度建設用地を見に行って欲しい。
調布の当時の情景を語るまえに、調布人情について触れておくべきであろう。ほとんどが都区内に居住地をもっていた教職員が、勤務先をはるか北多摩の地に移さねばならぬことは大問題であったといっても過言ではあるまい。この点に関して、町当局は協力を惜しまなかったといわれている。
~~中略~~
下石原のひなびた小さな駅を降りて、鉄路の北側を見ると、春から秋までは一面の青い畠であった。そうした畠地の北方彼方に新しい都営住宅が点々と建てられて、そこが右に述べた割り当て住宅であったのである。
「便利が悪い」「はるか北多摩の地」「一面の青い畠」など現在の調布からは想像もできないような光景である。また余談ではあるが、筆者ははるか東北の地より上京した。入学当初、東京・調布の人の多さには非常に困惑したもので合ったが、電通大も調布への移転当初は非常に田舎であったということに非常に驚いた。
1957年以降の電気通信大学
電通大の校舎が調布に移転することとなった要因については1949 年に官立中央無線電信講習所が電気通信大学に昇格したことに由来するようである。詳しくは電気通信大学60年史後編第4章をご参照願えればと思うが、簡潔に述べると、目黒校舎の設備が新制大学設置基準を満たせないことであるという。校舎移転に際しては用地の選定関する非常に興味深い話が多いので、ご覧いただくことを推奨する。
ここでまた、調布移転当初の地図および航空写真を見てみる。
ようやく、覚えのある光景に近づいてきた。ここまでご覧いただいた読者の方、もう少しであるのでご辛抱されたい。
左上の地図にも電通大の文字が表れていることがわかる。陸上部員である筆者が気になる点としては、西地区に存在するグラウンドのような地図記号である。お忘れの方もいるかもしれないが、これは電気通信大学陸上競技部のブログである。電気通信大学60年史, 今日編1章 電気通信大学の現状, 第6節:体育施設を閲覧する限り、この西地区のグラウンドに関する記載はないものから、電通大のグラウンドではなかったのではないかと推察する。現在の調布校舎の所在地に関して、電通大移転前は東京学芸大学の調布分教場があったことから、この関連施設であったのではないだろうか。(ご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教授いただけると幸いである。) 同じ調布校舎といえども、現在と過去では随分と様子が違うようである。
終わりに
今回は、電通大の歴史を現在を過去の地図を見ながら非常に簡便ではあるが、遡ることができた。今年で電気通信大学は開校107 年を迎えるわけであるが、その一端に我々が存在していることを改めて感じることができた。現在、電気通信大学ではCampus Masterplanとしてキャンパスの再編を計画しているようである (筆者の行きつけの西食堂もなくなるらしい)。 そのため、今我々が過ごしているこの電通大の校舎の様子も我々が年老いた頃には大きく変化しているかもしれない。そう思うと、なるべく多くの大学の風景を目に焼き付けようと思うのである。いつか、多摩川グラウンドのトラックが全天候型に改修されることを祈りながら本文章を終わらせようと思う。
今回の調査で使用したwebサイトおよび参考文献
- 電気通信大学60年史, http://www.museum.uec.ac.jp/60th-anniversary/index.html
- 麻布未来写真館~次世代へつなぐ麻布の記憶~, (2)歴史や文化, 学校, https://www.city.minato.tokyo.jp/azabuchikusei/mirai/documents/07_rekishibunka03.pdf
- 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」, https://ktgis.net/kjmapw/index.html
駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。さて、前半に登場した国道20号、通称「甲州街道」であるが、この道は辿っていくと、二見くんの出身地長野県へと至る道であります。街を走られる長距離部員の皆さん、こうも思ったことはないであろうか?
「この道ってどこまで続いているのだろうか?」
次回担当するブログでは「国道20号線走破 with 二見」をお送りします。お楽しみに〜
次のブログは光敏さんにお願いしたいと思います。よろしくお願いします。